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不在のアレゴリー 文・建畠 晢
 1994年に塩田千春は交換留学生として滞在していたオーストラリアのキャンベラで "Becoming Painting"と題したパフォーマンスを行った。壁に貼った白いキャンバスの前に自らもキャンバス地に身をくるんで立ち、背後のキャンバスもろとも全身に赤い絵具を浴びるというもので、文字通り、作者自身を絵画と一体化させてしまうという壮烈な試みであった。美術大学の絵画科の学生だった彼女にとって、それは自己表現というよりはむしろ自己確認のためのイベント、アーティストとしてのアイデンティティを自らの身体をもって問いただそうとするイベントであったといってよい。

 このパフォーマンスは、その後の塩田の作品の展開の原点をなしているように思われる。 果てしなく襲ってくる自らのアイデンティティへの不安こそが、塩田を制作に駆り立てるオブセッションなのである。生まれた土地、住んでいる土地、国籍、華族、あるいは自らがアーティストであること。そうした本来なら私たちのアイデンティティを保証してくれるはずのものが、彼女にとっては逆にアンビバレントな様相を帯びざるをえない。何ごとも自らの存在を確かなものとして満たしてくれることはない。彼女はその不安から逃れようとはせず、あえて不安の核心に身を置こうとするのだ。

 今日に至るまで不断に旅を繰り返しながら制作している塩田は「明け方に目が覚めると、ここがどこかわからなくなることがよくある」という。「目に見えるものすべてが不安に編み込まれているようで、体が動けなくなる・・・。しかしその不安がなくなれば作品が作れなくなるような気がして、もっと不安になる」(1)



 塩田千春は京都精華大学で村岡三郎に師事した後、1996年にドイツに渡り、ハンブルグの大学でマリーナ・アブラモビィッチの教室に学んだ。村岡は物質を非常なアレゴリーとして捉える特異なオブジェ感覚をもった彫刻家であり、アブラモヴィッチは周知のように、不安や危険性、忍耐、疲労、持続といった条件を自らに課すことで、メディアであると同時にそれ自体が主題でもある身体を対象化してきたパフォーマーである。この二人の世界に接したことは、塩田のアーティストとしての自己形成に大きな影響を与えることになった。彼らの日常的な生活者のタブーに抵触するような不穏な感覚とその背後にある強靭な意思に触れたことで、彼女が抱えている内奥のオブセッションを直接に表現に結び付ける可能性を見出したのである。

 ベルリンに移った塩田は、1999年に自らのアパートの浴室で泥水を満たしたバスタブに浸かり、髪や顔を洗い続けるというパフォーマンスを克明に記録したビデオ作品を制作した。自らの皮膚にまつわりつく泥は、おそらくは彼女を抱擁すると同時に拘束し、そこから自由になることができない大地(mother earth)の象徴であり、いかにしても彼女はそれを洗い流すことができない。それは住む場所を変えれば逃れられるというのもではなく、アプリオリな記憶として彼女自身の内に染みついているのである、このパフォーマンスはそうした記憶の原初性を身体的な体験として覚醒させるものであった。事実、事後にいくら体を洗っても「the feeling that I am not clean yetが皮膚に残った」(2)と彼女はいう。それは自らの内に宿っている「なにかわからないわだかまり」(3)であり、理性ではどうすることも出来ない内なる他者(inner other)であったが、しかしまた帰るべき場所を失ってしまった彼女のストレスを一時、静めるような不思議なノスタルジアの感覚でもあったのだ。



 ここでいう身体や記憶、あるいは他者といった概念はすでに過去のものに過ぎないという意見がありうるかもしれない。実体のないサイバースペースが云々される今日では、アイデンティティや主体性への問いというような20世紀的な議論はもはやアクチュアルな意味をもちえないという意見は、陳腐ではあるが、それなりの説得力をもって広まっている。

 しかし私たちはアイデンティティはそれがもはや自明のものではなくなったときに初めて意識され始めたということを、つまりアイデンティティとはアイデンティティの危機の問題に他ならないということを忘れてはなるまい。そのことに平行して身体、記憶、他者もまたしばしば空洞(blanc)という比喩によって語られてきたのである。不在の危機にさらされているからこそ、それは問題として浮かび上がってきたといってもよい。

 塩田の作品に時としてある種の喪失感が伴うのは、おそらくはそのことに深く関わっている。確かであるべきはずのものを見出すことが出来ないという断念にも似た思いが彼女にはある。しかしそれは決して甘い感傷でもなければ虚無的な感情でもなく、あくまでも一つの不在を直視しようとする"強靭な意思"に支えられているのだ。

 彼女の長大なドレスを吊り下げた作品は、その意味で上記のパフォーマンスの裏返しともいうべき性格をもつものであった。このシリーズは1999年からベルリン、アーヘン、ボンなどで制作されてきたが、なかでも最大の作品は2001年の横浜トリエンナーレに出品された「Memory of Skin」である。弧状の壮麗なカーテンのように天井から高さ13メートルのドレスを五着、並べて吊り下げたもので、ドレスはいずれも泥で黒褐色に染められており、一つ一つの上からシャワーの水が泥を洗い流すように伝い落ちている。

 これらのドレスは不在の身体の不穏なアレゴリーであり、また考えようによっては極大化したフェティッシュともいいうるだろう。泥は白いドレスにとっての冒涜だが、いかにしても拭い去ることのできない記憶のように、衣装=皮膚はあらかじめその泥の汚れにまみれてしまっているのである。泥を虚しく洗い流そうとするシャワーは、しかしバスタブのパフォーマンスは異なって、主なきドレスというフェティッシュが(いかに重々しい存在感をもっていようとも)すでに記号でしかないことを、泥によって冒涜されるはずの身体がそこに不在であることを果てしなく確認し続けるであろう。それはかつてありしものの墓標のように私たちの前に厳かに林立しているのである。

 あるいは憶測に過ぎるのかもしれないが、塩田にとっては黒褐色の泥もまた、アンビバレントな様相をもっていたはずだと私は思う。それはドイツの土の色なのである。私はこのトリエンナーレの企画に関わっていたが、彼女は制作に当たってこちらが思い込みで準備していた日本の茶色い土を使わず、より黒い色の土を探さなければならなかった。おそらくフェティッシュが装うべきタブーの色彩は、身体の不在のアレゴリーを担うべく、出自の土から切り離された他者の地の距離の表象である必要があったのである。



 泥が両義性であるのと同時に、糸もまた彼女にとっては拘束と擁護の二重の意味を有している。1999年の「Bondage」は、泥にまみれたベビー・ドールを壁に打ち付けた釘に毛糸を張り渡して縛り付けたものだが、人形は両手を前に突き出したあどけない仕草で前に歩みだそうとしているようにも見える。大地のしがらみとそこから自由になろうとする幼い夢といえば、あまりに図式的な解釈になってしまうだろうが、不吉といえば不吉でもあるその姿は、叶わぬ欲望がもたらす不条理な状況を象徴しているには違いない。

 同じ年に制作された「Dreaming Time」は、木の棒を組んで外形だけを型取った家の前に数多くの古靴をあたかもあちこちに出かけて行くように広げて見せたインスタレーションで、これも一見、家のしがらみから開放されようとする奔放な夢のようだが、その実、どの靴も家の中央の一点で糸でつなぎ止められている。ピンと張った赤い糸の放射状の広がりはどこに移り住んでも出自の地との関係を絶つことが出来ないという、優しくもまた絶望的な光景といわなければなるまい。

 2000年に始まる塩田の最も主要なシリーズに、天井と床、壁に蜘蛛の巣のように張り渡した黒い毛糸の向こうに簡易ベッドを配した大規模なインスタレーションがある。観客とベッドの間に介在する無数に増殖する黒い網の目は、内部の空間を禍々しく隔離しているようでもあり、また外部から眠りの場所を守っているようでもある。

 私たちはそこから容易に精神病棟や独房、強制収容所、あるいは兵舎などのイメージを想い起こすことになるだろう。それは小市民的な平穏な生活からは疎外された、密かに死に隣接した空間でもある。動きをとめた悪夢のような気配がその場を支配している。作品によってはベッドの傍らで水道の蛇口から水が絶え間なく落ちているが、それもどこか不吉な眺めである。

 これらのシリーズの作品を発表した展覧会場で、塩田は終日ベッドに身を横たえて眠り、あるいは全裸でベッドの端に座り続けるといった公開のパフォーマンスを繰り返し行なってきた。この場所こそが、戻るべきところ、帰属すべき社会を失った、彼女にとって安らぎの家なのだともいうように。しかしそれは黒い網の目に隔てられて誰も側に近づくこのとできない場所、彼女がでていくこともかなわない場所なのである。



 心の救済への願いが、自ずと死の感覚を招き寄せるという残酷な真実を塩田は直視している。彼女がアナ・メンディエタ(Ana Mendieta)に惹かれるのも、このアーティストの作品に瀰漫する死のイメージに、たとえば大地に裸体を埋葬するパフォーマンスの痛切さに、自らが抱えたオブセッションと響き合うものを覚えたからであろう。先に不安の核心に身を置くと述べたのは、死のイメージに結び付いたアイデンティティの危機という意味でもある。

 今回の展覧会(編註1)には、焼き焦げた一台のピアノを配したインスタレーションが試みられる予定である。灯油をかけて燃やしたものだが、いうならば、それもピアノを火葬に付すという儀式であったのかもしれない。

 焼き焦げのピアノは2000年のベルリンの展覧会ですでに一度、用いられているが、その発想はある時、偶然に読んだ詩の「僕の本音には音がない」という言葉が生まれたものであるという。「音の出ないピアノ」とは、(これも図式的にいえば)あるべきものが不在であることの理不尽な光景ということになるだろう。しかし楽器としての機能を剥奪する激しい炎によっても、ピアノは依然として音を奪われたピアノとしてのおどろおどろしい姿をさらし続けている。痛ましく、しかし考えようによっては威嚇的であるフェティッシュとしてのピアノとしての姿を、である。それは彼女が幼いころに、放火事件にあった隣家の焼け跡に、真っ黒に焼けたピアノが不気味な存在感をもって残されていたという記憶にも連なっている。

 本来ならそのピアノは平和な家庭のサロンや、文化の殿堂であるコンサート・ホールに安置されているべきものであったのだろう。その音は周囲に幸福な共感の空間を醸し出したはずであろう。だが、今、鍵盤まで焼け落ちたピアノは、ベッドと同様に黒い毛糸の網の目で隔てられ、死のイメージと重なり合ってしまっている。そして無惨なことに、なおもそれはピアノであることを止めようとはしないのだ。



 都市の生活者は、ピアノの傍らの鉢植えの土に水をやることで、一時の安らぎを覚える。もとよりディアスポラであることを自覚している彼女は、そのような矮小化された平穏な光景によっては自分を取り戻すことなどできようはずもない。塩田は果敢にピアノの音を断ち、泥土の中に身を浸す。だがそれもまた狭い浴槽の中だけに蘇る原初の記憶であり、窓の外から聞こえてくる都会の騒音は、ディアスポラであることの不安をさらに募らせるだろう。
 しかしなお塩田にとってのパフォーマンスとはアイデンティティの危機そのものを通じて、より普遍的な世界へと繋がろうとする切実な儀式なのだ、死と隣接した孤独な眠りや泥土に埋もれることは、危機からの逃避でもなければフィクションの世界への飛躍でもなく、明確な意志をもって、寓意的な真実を"今"生きてみせるというべきか。彼女は記す。「風呂場で泥水をかぶり、わたしはもう一度、体の中の呼吸を聞く、この土を買いに行く時代の中で・・・」(4)



(1) 塩田千春 著者への手紙 2003年
(2) Chiharu Shiota,Interview by Didi Kirster Tatlow,ai,summer 2001
(3) 塩田千春 同上
(4) 塩田千春 同上


編註 (1)Wuttembergischer Kunstverein Stuttgartにおける展覧会「The Way into Silence」のこと
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協力:Kenji Taki Gallery

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